ひっさびさに和製ホラー?を見て思ったこと : 「来る。」

映画の分類にはいつも自信がないのだが、最近久々にホラー枠として「来る。」を見た.(と思っている)

ホラー見たら寝れなくなる太刀なのだが、たまにはいつもと違うジャンルをみるというのは生きる上で大事なので、今回は見てみたのだ.

見た愚直な感想としては、映像としても面白いし、普通に怖さを楽しめる映画.

数日色々なシーンが頭をグルグルしてて、映画見た後にこんなに色々覚えているのは、やはり映像としての印象が濃く、演出が好きだったんだろう

そんなことを考えながら、数日立って、タイトルが気になった. 元のタイトルは「ぼぎわんが来る。」でしたっけ? これを考えてると昔貞子の「Oh きっと来る きっと来る」というのがふと浮かび上がってきた.

そんなときたったN数2個の例からこんなことを思った

「いる」「行く」でもなく「来る」なのが和製ホラーが大事にしていることなのではないかなぁ

と感じた.(雑) よく考えたらホラーとして当たり前かもしれないとも思うが.

昼間だろうが、一般家庭だろうが、高級マンションだろうが、どこにいても携帯を持っていれば、どこにでも「来る」というのが怖い.
どこにいても安心できない. むしろいつも優しく包んでくれる空間に裏切られる恐怖が更なる恐怖を増幅する、日常を侵食する恐怖というのを大事にしているように思う. それを表現してくれるワードが「来る」なのだと.

恐怖の館や肝試しで変なところに行った、霊が見える家系だった、呪いの建物にいた、密室で足を切らないといけない、そういった「場所特有」「人特有」では、見ている人には他人事にしかならない. 自分の毎日の場所は安全だもん. そう思えてしまうからだろう. もちろん和製ホラーにこれらを一切含まないわけではないだろうけど、「来る」というのを生かしたホラー映画が”共感”のあるホラーとして受け入れられていることが多いのではないだろうかと.

「来る。」の途中で霊媒師?のおばちゃんツアーが襲われたことがあまり怖く感じないのは、タクシーというのが自分にとっての安心感を与える空間ではないからだと思う.

恐らくアメリカのホラー映画にも「来る」というを大切にしているものはあるのだろうけど、あまり見ないせいだろうか思い当たっていない.

「来る」というのが恐怖心をなぜ煽るのかと言えば、”いつ”、”どうやって”、”どんなやつが”来るのかわからないからだ. ただ動作の「来る」ことしかわかっていないから怖い.

「来る。」の後半、部屋がおどろおどろしいどろどろしたものが出てきたときは恐怖心が和らぐ、”どんなやつ”が今”どこにいるか”わかるからだ.

「上司が来る。」も怖いしね.

と思って、寝た.

演技力はどの方もレベルが高く、見ていて飽きない. 個人的には満足だった.

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