明らかおかしいはずなのに、相手の意見が論理的に正しそうなときに確認すること

明らかに怪しい営業、明らかに間違っている似非科学、明らかにおかしい情報商材を前にして、相手の意見をちゃんと聞いて論破してやろうとするも、特に穴が見つからない/相手が正しいはずないのに正しい?となることがあるのではないかと思います.

そんな時、そんな似非を突破するにはどうすればよいか、上記以外のケースでも広く当てはまることだと思いますので、まとめておきます.

「論理的に正しいこと」と「その結論が正しいこと」は全く違う

例えば、水を飲むと死ぬ可能性があります(飲みすぎたり、溺れたり). 死ぬ可能性は避けるべきです. したがって、「水を飲むことは避けるべきです」?. なんてことにはなるはずがありません.

確かに水を飲むと数億分の一の可能性で死ぬかもしれません.ただだからと言って飲まないとそれはそれで死にます.

なぜこのようなことになるかを考えると、今回の場合は前提が曖昧なことが原因です.”水を飲むと死ぬ可能性があります”のこれです.

括弧のなかに書いてあるように、実際には「水を飲む」ことで死ぬのではなく、「水を飲みすぎる」ことで死にうる状況になります. なので、水を飲みすぎることは避けましょうなら、正しいのです.

もう一つ別の例です.

「家は広くなるほど居心地がよい。100m2の家よりも東京都全てが自分の家の広さの方が居心地がよい」

これは明らかに間違っていることがわかるかと思います. やはり、何がよくないかといえば前提がよくありません. 正しくいえば、前提が足りません. 広くなるほど居心地がよいが、ある一定よりも広いと別に居心地が変わらず、むしろ広すぎて家を生かせずに疲れると行ったこともあり得ます.この「広すぎた場合の言及」の前提がないため、上記で言われていることは正しいはずですが、結果的に結論は間違っているのです. またもう一つの見方として、広くなるほど居心地がよいというのがそもそも当てはまらない人もいます. その場合、当然上の文章はその人にとって誤りです.

さらにもう一つです.

「この情報は評判も高く必ずあなたのためになります. なのであなたは買うべきです」

評判がいいものはいいもので、いいものは買うべきというのがあなたの信条ならなたは上記と論理を組み合わせた場合に買わなくてはなりません. それが論理的に正しいことだからです.でも買うわけないですよね?

これも論理的に正しくはありますが、前提が嘘です. この情報は評判が高く、私のためになるに対してなんの根拠もなんの理由もありません. 評判はいくらでも操作することができます. そのため結論は正しくありません.

同じように「アメリカの研究の論文で発表されています」とか「特許が出ました」とかはなんの根拠にもなりません. 論文なら誰がどんな論文をどこで発表し、誰がなんと言っているかまで含めてやっと意味があります. 特許も効果を証明しているものにはなりません. 論文は「こう考えたけどどう思う?やり方書いたからもし間違いがあったら指摘してね」という状態です. ちゃんとした学会では数人がみんなで確認する前に誤りがないかを査読して確認します.そういう学会で通りつつ、発表後に多くの指摘が入っていないなら正しいこともあり得ます.ただし論文に書かれていることはちゃんと読まなくてはなりません. どういう条件でどういう場合にその前提が正しい状態になるのかが大事です.

これまで述べたように、あまりに抽象的すぎる前提や結論は些細なことを全てすっ飛ばしてしまいます. しかし実際にはその些細なことが原因でうまくいかないことが多いです.その前提の曖昧さ、不足、改竄によって不適切な結論が導かれています.

そうはわかっていても押されてしまうことがあります.

明らかに間違っていそうだけど、断定で強く逆説的なことを言われると

もしかしてそうなのかなとなってしまう…といったこともあります.

「お金はない方がいい」という前提が話の最中無理やり作られたとします.
明らかに間違っていますが、でもちょっと魅力的です.かっこいいキャラが言っていたら、もしかしたら正しいかもとさえ思ってしまいます.しかし、やはりこういったことを聞いた時も色々考えるべきです. どんな状況でも正しい結論というのは基本的にありません. 必ずそれが正しい前提があります.「日本円を数千億持っていることはいいこと」というのでさえ、「日本円が使える国にいて、みんな日本円をお金として認識していること」という前提が必要です.前提のない断定は信じない方が基本的に無難です. (生活に困らない環境にいて、病気にも/大きな人生イベントにも合わないということが明らかなら)「お金はない方がいい」は正しいときがあるかもしれません.

我々はなぜかそういった通常と逆説的なことに一種の憧れを持っているのかもしれません. 言い切る人に/断定できる人についていけば安心という面があるのかもしれません. しかし、言い切る人、断定できる人は、考えが足りない、リスクを考慮しない、普通の価値観とは異なっている、だけな人な可能性もあります.

普通の人とは違う意見を基本的には、本のタイトルやネットの記事のタイトル、ブログのタイトルにします. その方が人に見てもらえるからです. 本人もめちゃくちゃなことを言っていることをわかっていながら、あえて煽ってタイトルを付けたりします. そのときにその主張は大抵逆説的なことを断定しています. それを鵜呑みにしないようにしてください.

「どんな主張も前提があるはず. 前提がないものは怪しい. エビデンスが足りないものは怪しい. データが出せないものは怪しい」と考えて疑うのが、ひとまず一つの指標かと思います.

しかし、多くの場合、それに対応するように嘘のエビデンスやこれまた前提が異なったデータというのが用意される可能性があります. わかっている人は、わざと相手が気にしないだろうデメリットも伝えた上でそれを否定し、デメリットがほぼないように伝えるなど、親身に振る舞いつつも、商品を進めてくるなどします.

それもまた、結局、そのデータの前提は正しいのか? そのデータから導けることは正しいのか?そのデータの測り方は正しいのかを疑ってかかるしかありません.

先ほどのに加えて、「データがあったとしてもその取り方、測り方、評価の仕方が怪しい」というのも加えるのがよいです.

ただ実際にそれをリアルタイムで話/営業を受けているときとかは、そこまで聞くのはなかなか難しいとは思います…
可能なら「そうなんですね. データはあるんですか?」とか「なんていう論文ですか?」と聞いてみたら良いと思います. Googleで検索すれば論文は見つかる時代なので.

終わりに

どんなに自分が正しそうでも、とりあえず論理的に正しいかを確認してから批判しようとする人が騙されないことを祈ります.

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